深海に生育する微生物の生理学

為我井 秀行(日本大学文理学部化学科)

 

生物が生育するためにはエネルギーが必要であり、そのエネルギーはATPの高エネルギーリン酸結合という形で蓄積される。エネルギー獲得の形態は生物種によって様々であるが、大きく分けると発酵、光合成、呼吸の3種類に大別される。発酵とは嫌気的条件下で生物が有機化合物を有機化合物で酸化してATPを生成するシステムである。ATPはリン酸化合物からADPへ基質レベルで転移される。これに対して光合成と呼吸においては、ATPは電子伝達系に共役して発生するプロトン駆動力によってATP合成酵素が働くことにより合成される。原核生物の呼吸系は非常に多様性を示すことが知られている。電子供与体は多くの場合NADH、コハク酸などの有機化合物であるが、アンモニア、Fe2+などの無機化合物を利用する細菌も存在する。また最終の電子受容体は多くの場合は酸素であるが、ある種の細菌は硝酸、硫酸、フマル酸、トリメチルアミン N-オキシドなどを利用する。これらは酸素を必要としないエネルギー獲得系ではあるが、電子伝達と共役したATP生成が起こる点で発酵とは明確に区別され、嫌気呼吸系と呼ばれる。このように微生物の呼吸系はバラエティに富んでおり、種によって様々なエネルギー獲得戦略を持つ。また微生物はいつどんな環境にさらされるかも分からないため、様々な呼吸系を同時に持ち、環境の変化に対応できるように備えている。このように微生物の呼吸系はその生育環境と大きな関連性を持ち、呼吸系の性質はその生育環境を反映するものである。したがって微生物の呼吸系に関する研究はその微生物の性質、環境と微生物の関わりを理解する上で大変重要であるといえる。

深海は未知の世界であり、地球上に残された最後のフロンティアと言われている。そこに住む生物についてもいまだに明らかになっていないことが多い。海洋科学技術センターではこれまでに有人、無人の深海調査船を用いて深海から海水、底泥などのサンプルを回収し、深海に生育する微生物に関する研究を進めてきた。深海という特殊な環境(低温、ところによっては高温、高圧、暗黒)に生育する生物の性質を考える上で、その呼吸系に関する研究は大変重要であると言うことが出来る。このような観点から、私たちは様々な場所から回収されたサンプルより単離した細菌を用いて、深海微生物の呼吸系に関する研究を展開している。

Pseudomonas sp. strain MT-1は、深海調査船「かいこう」によって1996年にマリアナ海溝チャレンジャー海淵から採取された底泥から単離した、深海に生育する脱窒細菌である。脱窒(硝酸呼吸)は地球規模での窒素循環サイクルの一翼を担うものであり、地球環境を考える上でも欠かすことが出来ない。脱窒とは主として細菌が担う、硝酸から分子状窒素への還元によって地上から窒素原子を大気中に放出する作用のことであり、必要な電子はすべて呼吸鎖電子伝達系から供給される。これら窒素酸化物の還元はプロトン駆動力の形成(=ATP合成酵素によるATP合成)と共役しており、酸素呼吸系における酸素分子が窒素酸化物に置き換わったものと見なすことができる。つまり硝酸呼吸系は典型的な嫌気呼吸の一種である。また一方硝酸呼吸系の酵素は、進化的に見て酸素呼吸に関与する酵素の祖先型であると考えられており、エネルギー代謝系の進化を考える上でも重要なものである。このような知見から硝酸呼吸はこれまでに多くの研究者に注目され、嫌気呼吸としてはもっとも研究が進められてきているものの一つである。本細菌のように、深海という特殊かつ孤立した環境に生育していた細菌の脱窒系は深海における窒素循環、呼吸系の進化を考える上で非常に重要な研究対象であると考えられる。本講演ではPseudomonas sp. strain MT-1に関するこれまでの研究成果を中心として、深海に生育する微生物の生理学について紹介していく。

 

為我井 秀行 htamegai@chs.nihon-u.ac.jp

日本大学文理学部化学科生物化学研究室

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